私の魂彩る

宇多田ヒカルさんが、宇多田ヒカル大先生が、以前は強がってる女の子ってキャラを通して発していた、今までの曲はどこか空想の雰囲気があった、と仰った。
言っていることはわかる。強がってる女の子キャラでないと、「別に会う必要なんてない」なんて歌い出しはできない。「彼氏だとか彼女だとか呼び合わない方が僕は好きだ」なんて普通の女の子は言えないはずなんだ。
それはわかるけど、では、私は、今までの彼女の曲を、作詞作曲という「創作」であることはわかりつつも、10代やハタチそこそこのリアルな感情の片鱗が散りばめられていると信じていて、10歳年上の彼女の曲に10年遅れで胸を打たれ、支えられているというのに、それは勘違いだったのか。私は、強がってる女の子キャラを通して発された歌に陶酔している強がってる女の子なのか、22にもなって。
確かに、10代で書けるなんてすごすぎる歌詞で、彼女が15,16で書いた歌を私はハタチを過ぎても、は〜すごい…は〜すごい…ありがとう…と言っている。すごいけど、私の中に確かにある感情で、10代のときからあった感情で、それをこの表現にして書いて歌っているのは到底及ばないすごさなんだけど、同じことを思っていたのだから、近い存在である、と信じていたかったのに、そう信じることでより愛を感じられたのに空想なんか〜〜〜〜いというね。

そして今回、そのキャラを通さなくてもよくなった、より肉体的になったと言われて嬉しかったと彼女は言った。母を失って、自分が母になって、初めて本当の気持ちを歌えた。私はそれを受け止めたい。ぜひ受け止めたいのだけれど、母失ってないし母になってねえ。「道」を聴いて素晴らしいなと思った。思ったけれど、絶対今はわからないこれは。この歌に支えられるのはきっと何年も先のこと。また少し遠くなる…
15歳頃から少しずつ少しずつ、この曲もすごい、あっこの曲も今の自分にぴったりだ、とはまっていって、本当にすごいと思うのはここなんだけど、だいたいの恋や悩みに寄り添ってくれる歌があるんだよね。
それにこの度、親を亡くしたとき、そこから少し立ち直ったとき、そして自分の子供を産んだときに対応してくれる曲を出されてしまわれた。これはつまり宇多田ヒカル以外聴けなくなっても力強く生きていけてしまうということなのでは。そして自分がそれに直面したとき、その時聴く彼女の歌は強がりでも空想でもなく本当の彼女の気持ちで、その時私は何歳になっているかわからないけど、その時初めて本当の彼女の気持ちを聴くことになる。宇多田ヒカルの音楽があれば何があっても大丈夫と思える。