いってらっしゃい!はごろもフーズ

先週の金曜日の話二本立て。

前記事参照の秋山竜次イベントの後、友人とスープカレーを食べに行った。
だいたいどこのスープカレーにも入っているナスとピーマンが私は嫌いなのだが、もう子供じゃないし、スープカレーに浸ってるのならまだ我慢できるので不味いと思いながら食べる。ナス食べる。不味い。ピーマン食べる。あれ、そんな不味くない…!?
ピーマンの苦味が嫌いで嫌いで、お弁当に入っていようものなら全部に苦い匂いが広がってる気がするし、残せない状況で頑張って食べたときは、その後しばらくピーマンの味が上がって来るのが本当に無理だったのに。苦くない…苦くなくない…?

今日はそういう日なのかもしれない。もしかしたら秋山竜次の手に触れたことでピーマンを美味しく感じる神経的なチャクラ的なのが解放されたのかもしれない。秋山竜次は不思議な力を持っているのかもしれない。今日、もう今日ピーマンをさらに食べたろ、もう、食えるんや。その確信に近い思いのもと、スーパーでピーマンと挽肉を買い、ピーマンの肉詰めを作った。もちろん嫌いだから食べたこともない。ピーマンを一から調理したこともない。なんだこの種。空洞すぎてまじじわる。

そうしてできたピーマンの肉詰め、めちゃ美味。何?まじ美味い。もっと苦いじゃん、苦味が私を苦しめて来たじゃん、まじ何?幻?すっからけっち〜

子供の頃野菜はお芋とトマトしか食べられないってくらい好き嫌いが多かったけど、ピーマン克服しちゃったのでもうほぼ全部食べられる。どぅるどぅるして意味不明すぎて嫌いだった牡蠣も、今や二兆個食べたい程に好き。大人になるとちゃんと食べられるもの増えていく。

でも、職場に見たことないくらい偏食のおばさんがいる。自分の好き嫌いの減りようから、無理矢理食べさせたりしなくたって、大人になって外に出るうちに自然に食べられるもの増えるんだ、だからいつか自分の子供に対しても気楽に食べさせていけばいいやと思ってたのに。どうしたらそうなるんだ。美味しいものの話のしづらさったらない。せっかくこんなに美味しいものが溢れてる国でそんな人になってほしくない。また始まってもない子育てへの架空の悩み。

関係あるような関係ないような話で、よく小さい頃食事中に親父が怒り出すと、お母さんが「ご飯不味くなるからやめて」と止めていた。止められても止まらなかったし、私も止めるためになんとなく言ってることだと気に留めてなかったけど、大人になってから考えると、子供たちのために作ったご飯なのに、例え子供が悪いことしたから怒られていようと、泣いて食べられなかったりどんどん冷めていったりするのって本当にお母さん悲しかっただろうなと思って。今これ書いてても涙が。私もお母さんになったら同じこと絶対思うなと思って。架空の涙。冷めるならまだいいさ、昭和のお母さんはちゃぶ台ごとひっくり返されていた。ご飯を作ってくれる人にちゃんと感謝しておいしく食べよう。
自然を、美味しく、楽しく。KAGOME

以上金曜日の話二本立てでした。